NOFOLLOWフリーブログです!
Home | Book Reviews, 一般書

セカイ系とエイエン系の着地点――『ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』

2009年10月13日 コメントはありません


最盛期の宮台真司を彷彿とさせる、大変おもしろいサブカル論です。

これを盛り込んで欲しかった

ケータイ小説はヤンキー文化から受け継がれているという仮説から論を広げ、『NANA』のセリフや浜崎あゆみの歌詞などにその共通点を見出している。
ただ、根拠となる資料がそのふたつに依拠しすぎている感はあった。ヤンキー文化の地盤である〈郊外〉を語るなら『木更津キャッツアイ』あたりも参考になるし、最近なら雑誌『小悪魔ageha』あたりもポストヤンキー文化を語る上で有効な資料になるだろう。

また、ケータイ小説全般がどれも似たような内容、という点ではずせないのが桜井亜美。
桜井亜美の小説も、似たような題材で似たような内容のものばかりだ。また、ケータイ小説の書き手に多いであろう年齢層の中には、90年代当時、女子ポエジーの源流であろうコバルト文庫から桜井亜美に流れた人もそれなりにいたと思う。あと桜井亜美=速水由紀子という速水つながりを考えてもぜひ入れて欲しかった(笑)。

ヤンキーの一部である暴走族の文化として、雑誌『ティーンズロード』を作者は挙げているが、それ以外にも、「地域のコミュニティ雑誌(タウン誌)」の重要性を指摘して欲しかったし(特に読者コーナー)、暴走族文化から枝分かれした走り屋文化の資料として『頭文字D』は引用されているが、『湾岸MIDNIGHT』の濃密なポエジー(ヤンキー・ポエジーにおける「教えてくれ、悪魔のZ――」のようなダーシの重要性など)について語られていないのも片手落ちと感じた。

〈セカイ系〉と〈エイエン系〉

ケータイ小説には特定の語句が頻出する。「永遠」もそのひとつだ。
「あたしたち、永遠に一緒だよね」とか「永遠にユーヤを愛し続ける」とか。
しかし、当然のことながら永遠は訪れない。それでも彼女たちは希求した永遠が決して訪れないことに絶望などしない。彼女たちが望んだ永遠は、その一瞬の想いの中の世界に存在し、ゆえに〈永遠〉と《一瞬》は等価な重みをもつ。無限の《一瞬》それぞれのなかに、〈永遠〉が存在するのだ。このちっちゃな〈永遠〉をここでは〈エイエン〉と名づけよう。

オタク文化は自分たちの手が届く(と思われる)範囲に自らの存在すべてを閉じ込め、その境界を〈セカイ〉と名づけ、自分たちだけの世界を手に入れた。
ヤンキー文化は自らの存在すべてを一瞬の青春に捧げ、その時の涯てを〈エイエン〉と名づけ、自分たちだけの永遠を手に入れた。

〈セカイ〉と〈エイエン〉、どちらも自分の手が届く(と思われる)範囲が実世界の臨界点と同一視されているという共通点こそあれ、空間と時間という軸の違いがある。この違いはどこから来ているのだろうか。

オタク文化は根底に男性性があり、ヤンキー文化は根底に女性性があるからではないだろうか。
戦争の歴史からもわかるように、自分の領土(空間)の拡大を望むのは男である。その欲望がコンパクトに、誰にでも手に入るような装置として〈セカイ〉が登場したのではないか。

いっぽう女は男を惑わし、女は永遠の美を望み続ける。自らの美しさよりも領土や権力に血道を上げるのは、女性性とは遠い。そしてここでも《永遠》の代替物として〈エイエン〉が生み出されたのではないだろうか。

また、細かいことをいえば、ヤンキー文化は地元意識が強いことからもわかるように、地域性を重んじる。つまり彼らの〈セカイ〉は彼らの地域ですでに閉ざされた所与のものである。なのでそこは延伸させずに、新たな軸として「時間」を取り込み、その最大幅である〈エイエン〉に焦がれるのではないか。

また、紫門ふみが語ったように「男は女の暗い過去に惹かれ、女は男の明るい未来に惹かれる」。女性は、未来という不確かな要素にあるいは魅せられ、ポエジーを得るのかもしれない。


ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

著者/訳者:速水健朗

出版社:原書房( 2008-06-09 )

単行本 ( 224 ページ )



永遠と名づけてデイドリーム / 小室哲哉

エピックレコードジャパン( 1991-12-12 )


このエントリーを含むはてなブックマーク はてなスター

Comments are closed.

あわせて読みたいブログパーツ